大乗寺 円山派デジタルミュージアム
Daijyoji Temple Digital Museum of the Maruyama School
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第7話. 応挙没

応挙は寛政7年(1795年)7月17日に没している。大乗寺「松に孔雀図」を完成してのち3ヶ月後のことである。普通の画家ならば「松に孔雀図」が絶筆というところであるが、「松に孔雀図」を4月に完成させて後も保津川図屏風や備前瑜伽山寺の竹鶏図襖を描いている。晩年は目を患い歩行も困難であったと伝えられる一方、驚くばかりの多忙である。竹鶏図には落款を入れることができなかったという。

応挙の墓
京都、四条大宮より京福電鉄嵐山線に乗る。太秦(うずまさ)で降りると目前に広隆寺の山門がそびえ立つ。広隆寺は弥勒菩薩で有名な寺である。広隆寺の東側の道を少し入ったところに悟真寺がある。寺の経営する幼稚園の方が目立つが、その奥が寺である。応挙の墓はこの悟真寺にある。寺の人が墓に案内してくれた。寺は当初四条大宮にあったのを昭和の時代になって現在の場所に移転したという。そう大きくはない墓地である。まとまった区画の中に円山家各代の墓石が並べられている。正面に応挙の墓を中心に5基の墓が並んでおり、向かって右隣に応瑞、さらにその右に応立、向かって左側には応震、応誠と並んでいる。応挙を一世とするならば向かって右に二世応瑞、左に三世応震にはさまれ、さらにその外側に四世応立、五世応誠の墓があるという配置である。応挙の墓には屋根が付けられており、覗き込むようにして墓碑の文字を見る。「源応挙墓」と刻まれている。光格天皇の弟である妙法院宮真仁法親王の筆と伝えられているが、楷書に近い筆跡である。墓碑の裏には「寛政七年乙卯(きのとう)七月十七日卒」とある。応挙の法名は「円誉無三一妙居士」とする資料と「円誉無之一居士」とするものがあり、墓石に手がかりを求めるがわからず。寺に確かめてみるが墓を預かっているだけで過去帳などはないということであった。ゆかりの寺に多くの絵を遺している応挙であるが悟真寺に応挙の絵は1枚もないとのこと。「当寺に1枚でもあればねえ……」と案内の女性の言葉が残る。
応挙の没年、寛政7年(1795年)は前年よりこの年にかけて写楽が役者絵を描いた時期でもあり、この時代の人の多彩な能力と実行力には舌を巻くばかりである。

応挙の宅址
京都四条通南側の堺町との角から少し東側のところに応挙宅址の碑がある。繁華街のビルの影に石碑があり解説文が掲げられている。
「応挙は享保十八年(1733年)に生まれ、十七歳のとき京に出て…中略 この地に居をかまえたのは若い頃近くの四条道場金蓮寺(こんれんじ)の境内に借家住まいをしていた関係であろうか?…中略 寛政五年(1793年)病にかかり間もなく回復したがその後は歩行の自由を欠き視力も衰えた。それにもかかわらず毎年伏見の梅渓(うめだに)に梅を見に行くのを楽しみとしていた。…」
 応挙宅址
 四条通堺町東入ル南側 立売中之町
とある。
明和5年(1768年)の平安人物志には「四条麩屋町東入ルに住む」と書かれている。このとき応挙は36歳である。四条通堺町と四条麩屋町はさほど離れていないから、近いところで居を移していたことになる。門下の弟子も多く多忙な応挙には京の中心地での住まいが欠かせなかったのかもしれない。また応挙自身このあたりでの暮らしを好んでいたとも思える。アトリエとしていた大雲院も近い場所である。


大雲院址
応挙は大雲院という寺をアトリエとしていた。大雲院は天正15年(1587年)本能寺で死を遂げた織田信長・信忠父子を弔うため、命をうけた貞安上人により烏丸御池に創建したといわれている。信忠の法名からとって大雲院の名になったという。天正18年(1590年)豊臣秀吉による「町割り」(京都市街地の再編成)で寺町四条下がるに移転し、敷地も広大になったようである。天皇から勅額を下賜される京洛でも有数の寺社であったらしい。どういう経緯で応挙が大雲院を制作の場としたのかはよくわからないが、応挙の住居に近く便利であったと思われる。天明の大火では大雲院にも火が及び完成間近の「松に孔雀図」もろとも焼けてしまっている。(参照 第6話 同じ絵を二度描いた応挙) 応挙の画績に大雲院の果たした役割は測りしれなく大きい。応挙の作品の大きなものは当時の一般住居での制作は困難とも思われ、寺の広い方丈で制作されたのであれば納得がいく。明治22年の第1回京都市市議会は大雲院で開かれたというから近代まで地域にも貢献度の大きい寺であったようである。四条通り界隈の商業地としての発展にともない昭和48年(1973年)東山に移転し、四条寺町の大雲院跡地は高島屋京都店に隣接する駐車場となっており、小さな記念碑があるのみである。

名所絵図の大雲院
http://www.withe.ne.jp/~ted/koyama/map/index.html 
応挙の墓(太秦悟真寺)
応挙の墓(太秦悟真寺)

応挙宅跡の碑(四条通堺町東入ル)
応挙宅跡の碑(四条通堺町東入ル)

現在の四条通り堺町角
現在の四条通り堺町角

大雲院跡の碑(四条寺町下ル)
大雲院跡の碑(四条寺町下ル)


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応挙のお話

第1話. 穴太村に生れる
第2話. 尾張屋勘兵衛とレンズ
第3話. 応挙と博物学
第4話. 応挙のアトリエ制作と現場空間へのこだわり
第5話. 応挙と大乗寺
第6話. 同じ絵を二度描いた応挙
第7話. 応挙没

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