大乗寺 円山派デジタルミュージアム
Daijyoji Temple Digital Museum of the Maruyama School
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第3話. 応挙と博物学

 応挙は「写生の祖」といわれている。目前の対象物を観察しながら描く写生を絵画制作に取り入れ、それまでの画法を大きく変化させた。その画法は現代の日本画壇にまで受け継がれている。
 応挙が42歳であった安永3年(1774年)に「解体新書」が刊行されている。「解体新書」は前野良沢、中川淳庵、杉田玄白らが明和8年(1771年)3月小塚原での死刑囚の死体解剖に立会い、オランダの解剖図譜「ターヘルアナトミア」の内容が正しいことを知って驚き、その翻訳を決意したことによるのであるが、この解体新書の挿絵を描いたのが秋田藩の若い平侍であった小田野直武という人であったことはあまり知られていない。
当時の秋田藩主佐竹義教(よしあつ)(後に号を曙山とする)は「画法綱領」「図画理解」などの絵画論の著書を刊行するなど絵に造詣深く、秋田蘭画といわれるほどこの時期秋田藩では洋画が盛んであった。平侍であった小田野直武はその画才を認められ藩主の元に出入りを許されていたという。直武は銅山検分に秋田藩を訪れた平賀源内との出会いにより、江戸に呼び出され急遽「解体新書」の挿絵を描くことになったらしい。
 図柄の踏襲や師の技法伝授にひたすら精力的であったそれまでの絵師では、人体解剖という現場の刻々を観察しながら描く必要に応えることができない、という判断があったのだろう。江戸から遠く離れた秋田藩の人物が抜擢された事実は、この時代絵に求められるものも急激に変化したことの象徴的な出来事であるように思える。また、人の出会いという要因もあろうが、この時代の人の交流や才能評価の自在さには驚かされるばかりである。
 時代の要求はいろいろな分野で真実をとらえようとする意欲を盛んにし、様々の事項が項目別に整理され、図入りで説明が付けられた百科全書が中国から輸入される。その内容は、当時の人々の好奇心を刺激し、知識欲を満たしてくれる格好のものとなり、同様のものを自分達でも編纂してみようという動きも盛んとなる。そのためには今までにない実証的精神が求められ、現実をふまえた試行錯誤や研究開発の姿勢が必要となったのである。絵師自身も物事に関する探究心をもち、作品それぞれに知識の裏付けが必要とされることとなる。
 応挙も絵師としての名声が高まるとともに、様々の分野の知識人との交流を始めている。応挙の絵の明るく美しいところは皇家の受け入れるところとなり、皇室血縁の人々との交流が盛んとなる。宝鏡寺蓮池院尼公の元に出入りし、やがて応挙のスポンサー的存在となる円満院門主祐常の知遇を得、円満院時代と呼ばれるほど多くの作品を生み出すのである。円満院門主祐常も博物図譜の編纂を目論んでいたらしく、応挙のこの時期の写生帖には数々の昆虫、蝶、植物などの写生が残されている。また門主自身絵筆をもつ人であり、応挙から様々の技法や画法の手ほどきを受け詳しく記録に残しており、自らの考えと実現したい諸々を応挙に熱く語ったに違いない。応挙も門主の要望によく応えているようで、門主をうならせたであろうと想像できる作品を多く遺している。
 応挙の写生帖には絵とともに対象への観察の痕跡があって、展覧会でも画帖への関心は高くたいへんな人気である。応挙にとってはあくまで本作品のための取材であり、メモであり、覚えであったりで、人に見せることを考えて描いたものではないが、応挙の画帖に絵画習作の域を越えた何かを感じるのは、対象物をとらえて描く視線の裏に画家としての絵画表現の目と並んで博物学者としての観察の目があるからではないかと考えている。

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応挙のお話

第1話. 穴太村に生れる
第2話. 尾張屋勘兵衛とレンズ
第3話. 応挙と博物学
第4話. 応挙のアトリエ制作と現場空間へのこだわり
第5話. 応挙と大乗寺
第6話. 同じ絵を二度描いた応挙
第7話. 応挙没

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