大乗寺 円山派デジタルミュージアム
Daijyoji Temple Digital Museum of the Maruyama School
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第1話. 穴太村に生れる

 円山応挙は享保18年(1733年)丹波の国、亀岡穴太村の農家、円山藤左衛門の次男として生まれている。農家の次男に生まれながら禁裏(御所)に出入りを許される画家にまでなったのである。人との出会いや社会の要求との合致があったとはいえ稀な例といえる。
 与えられた環境の中からアートへの慧眼を育て、芸術に身を投じる例は江戸時代にあっても同様で、応挙の周辺の画家をみても呉春は京都金座の役人の息子、芦雪は淀川を警備する役人の子息であったといわれており、どちらも師の応挙よりも恵まれた環境下に生まれている。近代の画家の例をみても、小出楢重は薬問屋、安井曽太郎は木綿問屋、児島善三郎は紙問屋の子息である。名を成した画家のすべてがそうとはいえないが、一定の環境下で芸術への造詣を深めていく例は多い。一方ゴッホ、青木繁など厳しい条件の下に生まれた芸術家には壮絶な生き方の人が多い。
 さて応挙はというと、農家の次男である、しかも出生の前年には西国で虫害による飢饉があり、翌年には多数の死者が出たということであるから、相当に厳しい情況に生まれている。長男以外は家を出る慣習ではあるが、負担の軽減という理由からも応挙は家を出ることを当然のことととらえていたであろう。当初は菩提寺(地元の寺)の金剛寺に預けられたらしい。金剛寺には壮年期に描いた応挙の襖絵が残されている。応挙が恩義を感じて納めたものか、あるいは高名となった応挙にゆかりの寺が依願したものかは定かではないが、天明の大火でアトリエを失った応挙が、一時期故郷に帰って制作したとも伝えられていることなどから考えても、幼くして故郷を後にしたにもかかわらず地元の人達とも友好な関係を保っていたことが想像できる。自らの出生の不運をうらむことなく人柄も平明であった応挙は、その後の人生でも行く先々で受け入れられていく。
 やがて15歳の頃、上洛し京都で奉公に出る。縁あって人形や玩具、ビードロ道具を扱う「尾張屋」に奉公することになる。尾張屋での人形制作や覗き装置の絵を描くなどの仕事は応挙の資質に合っているばかりか、多くの技術を身に着けたとも思われ、応挙のその後を大きく決定付けることとなったようだ。尾張屋主人中島勘兵衛は応挙の素質を見抜いて、応挙17歳の頃狩野派の画家、石田幽汀に絵を習わせたという。石田幽汀に絵を習ったことが応挙の中でどれほどの意味をもっていたかは知るよしもないが、学んだ期間はさほど長くはなかったようで、若い奉公人の応挙であったが、この頃すでに狩野派の手法にしっくりこないものがあったのではないかと想像してしまう。若い応挙が尾張屋での手仕事をこなしながら、狩野派を体験するも動じることなく、また黙々と自らの手を動かせている様はなんとも痛快な感じであるし、その後の応挙のありようをこの時点で予兆しているようである。後年、中島勘兵衛の葬儀を応挙は池大雅とともに仕切っているから、恩義を感じていたというだけでなく絵師として身を立てた後も勘兵衛や尾張屋との付き合いがあったのだろう。
 人によっては成功ののち苦難時代をことさらに表現したり、苦境時の欠乏感を補うかのように豪華絢爛な趣味にはしる例があるが、応挙にはそういうところがまったくなく、ひがみや屈折した感情がまるでないかのようである。画家として名声を高めた後もどのような注文にも応じ注文主を満足させながらも、同時に譲ることのなく自分の絵を描ききっている。この応挙の何でも呑み込んでしまうようなブラックホール的心情は、生まれながらにしてその状況を受け入れざるを得なかったその出自によるところが大きく影響しているのではないかと想像する。若くしてこの心情を持ち得たことが、その後の応挙の成功への過程でも大きく作用しているように思われる。
 上田秋成が応挙の人物像を「衣食住に頓着のない面白味に欠ける人」と評しているが、少し成功すると妙に暮らしの様々にこだわりはじめる人が多いなか応挙にはそれがなく、ある意味上田秋成の指摘は当たっているといえる。

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応挙のお話

第1話. 穴太村に生れる
第2話. 尾張屋勘兵衛とレンズ
第3話. 応挙と博物学
第4話. 応挙のアトリエ制作と現場空間へのこだわり
第5話. 応挙と大乗寺
第6話. 同じ絵を二度描いた応挙
第7話. 応挙没

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