大乗寺 円山派デジタルミュージアム
Daijyoji Temple Digital Museum of the Maruyama School
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第4話. 応挙のアトリエ制作と現場空間へのこだわり

 目前の対象物を観察しながら描くという写生の手法を取り入れ、従来にない絵画制作法を確立し、「写生の祖」といわれる応挙は多くの写生を残している。写生は応挙にとっては本作品のための取材であり、覚え書きである。写生は対象物のある現場制作であっても、あくまでも本作品はアトリエでの制作である。欧州の印象派が始めた野外現場制作とは根本的に異なるものであり、写生=スケッチ=野外制作=題材を求めての旅 という図式は応挙の場合成立しない。応挙はほとんど旅をしていない。スポンサーであった浜松の植松家の招きにもなかなか応じなかったという。応挙の生涯と遺された作品の数からしても旅行などしている間がなかったのだろう。正直なところ旅をする暇があったら描いていたい…という心境であったのではないか。制作に没入している画家は心身とも無限に展開しているのだから、現実の旅などいかほどのものか?などと思っていたのかもしれないし、旅の刺激でもって創作意欲を昂ぶらせるなどというのは応挙にとっては無縁のことであったように思える。
 応挙のアトリエは大雲院という寺院であったという。大雲院の方丈で多くの大型作品が生み出された。どういう縁があったのか一人の絵師にアトリエとして場を提供した寺院の度量にも驚く。大雲院は織田信長が深く帰依した高僧貞安上人が本能寺の変で殺された信長、信忠父子を回向したのが起りといわれている。当初は二条烏丸にあったが、天正18年(1590年)秀吉の都市計画で四条寺町に移されより広大な寺域の寺になったという。大雲院は天明の大火で類焼し制作中の応挙の作品とともに焼けるが、再建され、明治22年には第1回京都市市議会の会場となるなど市民に親しまれた寺院であったという。昭和47年に祇園の南側に移転し現在に至っている。
 アトリエで本作品を制作していく過程で応挙はいろいろな考えや試みを作品に組み込んでいく。特に障壁画の場合は出来上がった絵の納まる現場空間を徹底的に研究し、絵が納められた後の空間的広がりや繋がりを考えぬいて制作にかかったようである。壁や襖が直角に接するL型のコーナー、あるいは襖で囲まれた室内空間などにこだわり、鑑賞者に絵による仮想空間を体験させることを意図したようである。絵が配置された部屋での視界を分析して、鑑賞者の視覚を効果的に生かした作品を多く遺している。
 大乗寺の例でいうと「山水の間」に描かれた風景は、襖がつくるL型コーナーの天井近くに描かれた山頂の滝の絵で始まり、襖から壁、違い棚の壁面、床の間の壁面へと情景が続き、床の間と違い棚の間を区切る壁面にも風景は繋がっている。その部分は正面から、左側コーナーから、右側コーナーからどちらから見ても風景が繋がるうえ、磨かれた床板には壁面に描かれた楼閣が映り、床を水面に見たてた構図になっているという凝りようである。さらにこれらの絵は上座、下座のそれぞれに座った人の視点を考慮して描かれており、上座からの視点は広く見渡す遠目の視点を、下座の視点からは高くそびえたつ山頂を仰ぎ見るように考慮されているのである。また、「孔雀の間」では金箔襖に墨のみで描いているが、松の木と孔雀はいずれも実物大で描かれ、現実空間との同化を試みている。
 応挙はさらにこれらの空間に宗教的意味付けをしていき、大乗寺では一大宗教的空間つまりは「立体曼荼羅」を意図したのではないかといわれている。これらは絵の納められた現場に足を運んではじめて体得できるものであり、本来はそうした鑑賞法が最も応挙の絵にふさわしいのである。応挙を評価するうえでこの部分は長く見過ごされてきた感があり、平面絵画としての評価と同時に絵画に囲まれたところに生まれる空間と、そこに身を置いた人の宗教的な体感までを制作の意図とした部分も高く評価されるべきであると思う。
 近年大乗寺についての研究が進み応挙の再評価がなされているのは喜ばしいことである。

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応挙のお話

第1話. 穴太村に生れる
第2話. 尾張屋勘兵衛とレンズ
第3話. 応挙と博物学
第4話. 応挙のアトリエ制作と現場空間へのこだわり
第5話. 応挙と大乗寺
第6話. 同じ絵を二度描いた応挙
第7話. 応挙没

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