大乗寺 円山派デジタルミュージアム
Daijyoji Temple Digital Museum of the Maruyama School
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第6話. 同じ絵を二度描いた応挙

 応挙の絵には「遠目の絵」といって大きな部屋の障壁画など遠くから見るものは細かなところまで描き込まず、むしろ全体のバランスに神経を注ぎながら勢いで仕上げられた絵がある。それらの絵は精緻に描き込まれた絵とはまた違った趣で魅力のある作品となっている。大乗寺の「孔雀の間」はまさにその遠目の絵の手法で描かれている。応挙の円熟した晩年の筆技はひと筆ふた筆に点々点…でうねる松の木の幹や、孔雀の側の岩肌を見事に表現している。「松に孔雀図」を見ていると壮年期のものにはない独特の粗さというか急ぎのリズムのようなものが感じられ、それは手を抜いているというのではなく、強い精神性とどんどん先に走る完成へのイメージに 筆が必死で追いかけていくというふうで、なにやら急いでいる応挙が感じられるのである。「松に孔雀図」は金箔に墨のみで描かれており、そのストイックな色使いと応挙の切迫したとも見える筆使いとがあいまって、この間を他の部屋とは違った緊張感の漂うものにしている。応挙のこの急いでいるとも見える筆跡の背景を追ってみると、やはり応挙は急いでいたと思われるのである。
 天明8年の冬、大乗寺のこの部屋に収められる「松に孔雀」の絵は応挙のアトリエである京都大雲院方丈でほぼ完成まぢかであったという。1月30日、些細な痴話喧嘩が発端であったといわれている。風の強い日であったらしい。冬の乾燥がいっそう条件を整えてしまったのかもしれない。加茂川団栗橋付近から出火した火の手はまたたく間に燃え広がり、御所にも及んで京都市中を焼き尽くしたといわれている。出火場所にちなんで「どんぐり焼け」とも呼ばれるこの天明の大火は、応挙のアトリエであった大雲院をも「松に孔雀図」とともに焼いてしまったのである。この火事で応挙がアトリエを失ったことは、避難を兼ねた仮のアトリエで呉春と寝食をともにし、この間に呉春は応挙の影響を大きく受けることとなっただとか、故郷に制作の場を求めて帰郷し、菩提寺である金剛寺に応挙の襖絵が現存するなどの結果を生むのであるが、大乗寺側は「松に孔雀図」の完成をその後7年間待たされることになる。応挙の事情を察して大乗寺の方も辛抱強く待っていたのかもしれないし、どうやら2度目の画料も支払っている様子である。
 寛政7年(1795年)大乗寺障壁画第二次制作が始まり、応挙は二度目の「松に孔雀図」を、呉春は「四季耕作図」を源gは「梅花遊禽図」を、芦雪は「群猿図」を制作するのである。この時応挙63歳、最初に描いた「松に孔雀図」から7年後であるが、この間の応挙の身体的衰えは否めず、61歳のときに病にかかり一旦回復するものの歩行も困難であり、視力も衰えていたというから、二度目の「松に孔雀の図」の制作は最後の力を振り絞っての大作ということになる。応挙自身最後の作品との思いがあったのかもしれない。大乗寺では正面向きの最も大きな部屋で仏様の前に広がる空間である。画題の孔雀は阿弥陀如来の乗り物でもある。どのような思いで制作をしていたのだろうか、現実に応挙はこの絵の完成後数ヶ月でこの世を去っている。「命あるうちの完成を…」の思いは知らずうちにも筆を走らせたのではないか。一枚でも多くを…の思いもこの時期の応挙にはあったのかもしれない。
 遠目の絵という制作技法だけではなく、何かに追われるふうにも見える大乗寺「松に孔雀図」の筆跡には、急ぎの理由があったのである。

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応挙のお話

第1話. 穴太村に生れる
第2話. 尾張屋勘兵衛とレンズ
第3話. 応挙と博物学
第4話. 応挙のアトリエ制作と現場空間へのこだわり
第5話. 応挙と大乗寺
第6話. 同じ絵を二度描いた応挙
第7話. 応挙没

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