年号[西暦] |
人物 |
応挙及び円山派の動静と大乗寺年譜 |
その他の出来事 |
享保17[1732] |
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西国虫害、大飢饉起こる |
享保18[1733] |
応挙1歳 |
5月1日、丹波国桑田郡穴太村(現在京都府亀岡市曽我部町穴太)に農業を営む丸山藤左衛門の次男として生まれる。 |
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享保19[1734] |
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紀伊国屋文左衛門 没(66) |
元文5[1740] |
応挙8歳 |
この頃、金剛寺に小僧として入ったと考えられる。幼少より絵を好んだという。 |
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寛保3[1743] |
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尾形乾山 没(81) |
延享4[1747] |
応挙15歳 |
岩城という呉服屋に奉公したともいわれ、やがて玩具商尾張屋で仕事をするようになる。
(13〜4の頃上京したとの説もあり) |
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源埼 |
生れる。 |
寛延2[1749] |
応挙17歳 |
この頃、尾張屋のすすめで狩野派の画家石田幽汀について絵を学ぶ。(一説に15歳ともいう) 短期間であったという。 |
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宝暦1[1751] |
山本守礼 |
生れる。 |
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宝暦2[1752] |
呉春 |
生れる。 |
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宝暦5[1755] |
長沢芦雪 |
生れる。 |
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宝暦9[1759] |
応挙27歳 |
この頃より覗き絵=浮絵の制作する。 |
伊藤若冲 鹿苑寺襖絵を描く |
山口素絢 |
生れる。 |
宝暦13[1763] |
応挙31歳 |
この頃、宝鏡寺蓮池院尼公との係わり深くなる。 |
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明和2[1765] |
応挙33歳 |
この頃、円満院門主祐常との親交はじまり、応挙の円満院時代始まる。 |
関東農民の大一揆
鈴木春信 錦絵を始める |
明和3[1766] |
応挙34歳 |
この頃、名を「応挙」と改名し、作品には主に「応挙」の落款を用いる。 |
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円山応瑞 |
生れる。(応挙二男) |
明和5[1768] |
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伊勢お蔭詣り流行 |
明和7[1770] |
亀岡規礼 |
生れる。 |
この頃、イギリス産業革命期に入る |
明和8[1771] |
応挙39歳 |
「牡丹孔雀図」(萬野美術館蔵)を描く |
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安永1[1772] |
応挙40歳 |
「大瀑布図」(萬野美術館蔵)を描く |
田沼意次、老中となる |
安永2[1773] |
応挙41歳 |
「雲龍図」(東寺観智院旧蔵)を描く |
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安永3[1774] |
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解体新書出版 |
安永4[1775] |
応挙43歳 |
「平安人物志」に画家部第一位で記載され、京都四条麩屋町西入に住むと記録されている。 |
この頃、木綿普及する |
森徹山 |
生れる。 |
安永5[1776] |
応挙44歳 |
「雨竹風竹図」(円光寺蔵)、「昆虫写生帖」(東京国立博物館蔵)、「籐花図」(根津美術館蔵)
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アメリカ13州独立宣言 |
安永6[1777] |
木下応受 |
生れる。(応挙三男、木下姓を継ぐ) |
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安永8[1779] |
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平賀源内 没(51) |
天明3[1783] |
応挙51歳 |
三井家、三井高美の1周期に「水仙図」を手向ける。 |
天明の大飢饉
与謝蕪村 没(68) |
天明4[1784] |
応挙52歳 |
尾張国海部郡明眼院の障壁画を描く。 |
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天明5[1785] |
応挙53歳 |
紀州草堂寺の障壁画を描く。 |
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天明6[1786] |
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大乗寺密蔵上人没、密英上人後を継ぐ。
大乗寺客殿普請始まる。 |
田沼意次、失脚 |
応挙54歳 |
紀州無量寺の障壁画を描く。また冬の頃「雪松図」(三井総領家)を描いたと思われる。 |
芦雪33歳 |
応挙の遣いで南紀に下り、翌年にかけて多くの 障壁画を描く。 |
天明7[1787] |
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大乗寺密英上人上京し、応挙に襖絵を依頼。 |
蒸気船発明 ジョン=フィッチ
米価騰貴により大阪、江戸で打ち壊し起る
松平定信老中となる |
応挙55歳 |
金刀比羅宮表書院「鶴、虎、竹林七賢之間」、 大乗寺「山水の間(山水図)」を描く。
この頃から、光格天皇の実兄妙法院宮真仁法親王との親交深まる。 |
応瑞22歳 |
大乗寺「鯉の間(遊鯉図)」を描く。 |
呉春36歳 |
大乗寺「禿山の間(群山露頂図)」を描く。 |
秀雪亭
(歳不詳) |
大乗寺「仙人の間(群仙図)」を描く。 |
山本守礼37歳 |
大乗寺「使者の間(少年行図)」をこの頃描いたと考えられる。 |
亀岡規礼18歳 |
大乗寺「使者の間(採蓮図)」をこの頃描いたと考えられる。 |
天明8[1788] |
応挙56歳 |
1月、大乗寺「芭蕉の間(郭子儀図)」を描く。正月30日、天明の大火に遭い大乗寺に収める予定の「松に孔雀図」を焼失。喜雲院で呉春と
同居。 亀岡金剛寺「群仙、山水、波濤之間」を描く。 |
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寛政元[1789] |
応挙57歳 |
大乗寺「龍門鯉魚図」を描く。 |
フランス大革命起る
司馬江漢油絵と銅版を始める |
寛政2[1790] |
応挙58歳 |
禁裏造営に際し一門を率いて障壁画を制作する。 |
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山本守礼 |
没(40歳) |
寛政4[1792] |
応挙60歳 |
駿河植松家へ「郭子儀図」を描く。 |
ロシア使節根室に来り通商要求 |
寛政5[1793] |
応挙61歳 |
この頃から病気がちとなる。 |
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寛政6[1794] |
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大乗寺客殿完成 |
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応挙62歳 |
金刀比羅宮表書院「瀑布及び山水の間」を描く。
「江口君図」(静嘉堂文庫蔵)描く。 |
この頃、鯨油・石灰による害虫駆除奨励 |
寛政7[1795] |
応挙63歳 |
大乗寺「孔雀の間(松に孔雀図)」「鍾馗図」、「保津川図」(個人蔵)を描く。 |
力士谷風梶之助 没(46)
写楽、前年5月よりこの年の2月の間に役者絵を描く |
呉春44歳 |
大乗寺「農業の間(四季耕作図)」を描く。 |
芦雪42歳 |
大乗寺「猿の間(群猿図)」を描く。 |
源埼49歳 |
大乗寺「鴨の間(梅花遊禽図)」を描く。 |
奥文鳴
(歳不詳) |
大乗寺「藤の間(藤花禽鳥図)」を描くか。 |
応挙 |
7月17日死去。四条大宮西入悟真寺に葬られる。
法名円誉無之一居士。
墓碑を妙法院宮真仁法親王が書く。 |
寛政9[1797] |
源埼 |
没(51歳) |
昌平坂学問所を官学校とする |
寛政11[1799] |
長沢芦雪 |
没(45歳) |
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享和2[1802] |
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大乗寺密英上人 没 |
東海道中膝栗毛 |
文化2[1805] |
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喜多川歌麿 没(53) |
文化8[1811] |
呉春 |
没(60歳) |
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文化10[1813] |
奥文鳴 |
没(年齢不詳) |
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文化11[1814] |
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伊能忠敬 日本沿海地図完成 |
文化12[1815] |
木下応受 |
没(39歳) |
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文政元[1818] |
山口素絢 |
没(60歳) |
司馬江漢 没(72) |
文政8[1825] |
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異国船打払令 |
文政10[1827] |
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小林一茶 没(65) |
文政12[1829] |
円山応瑞 |
没(64歳) |
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天保4[1833] |
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安藤広重 東海道五十三次刊行 |
天保6[1835] |
亀岡規礼 |
没(66歳) |
天保通宝新鋳 |
天保8[1837] |
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大塩平八郎の乱 |
天保12[1841] |
森徹山 |
没(67歳) |
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