大乗寺 円山派デジタルミュージアム
Daijyoji Temple Digital Museum of the Maruyama School
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群猿図 長沢芦雪筆について 
 猿の生態をあますところなくとらえ、活き活きと描いています。猿の中にもそれぞれの関係があり、人の世の縮図であるかのようにも見えます(部分1)。応挙門下では源gとならんで二哲といわれた芦雪は、歴代の画家の中でも異彩を放つ存在でありその作品は海外でも高い評価を受けています。
 芦雪は天明6〜7年にかけて応挙の遣いで南紀に下り、その地の寺々に多くの障壁画を残し、彼の壮年期の激しい制作意欲を見せています。大乗寺のこの猿の間は南紀に行ったのち数年を経て、芦雪の個性が開花するとともに円熟期を迎えた頃に描かれた作品だと考えられます。確かな観察力と巧みな描写力でとらえられた猿はいまにも目の前を走り抜けるような臨場感があります(図1)。
 また、芦雪独特の筆の勢いにまかせた描き方は、応挙門下の中でも特異な存在であったと思われ、一門の他の画家とは絵に対する考え方も違って、相当に葛藤があったのではと想像できます。

◆芦雪の早描き、立て描き
 「芦雪の早描き」といわれたくらいで、相当に筆の早い画家であったようです。大乗寺の猿の絵も輪郭を描くことなくいきなり猿の体毛を刷毛で描き(部分2)、同時に猿の動作や姿勢までもを決定づけているのですから、他の画家とは違う何か天性のものを持っていたのかもしれません。大乗寺の襖絵は下方向に墨が垂れている部分があり(部分3)、おそらく芦雪はこの絵を立てて描いたと思われます。そうであれば表装済みの白襖に直に描いたとも考えられ、それならば芦雪は大乗寺に来て描いたのでは…と想像が膨らんできます。

◆芦雪の南紀行
 南紀串本に無量寺という寺がありますが、宝永4年(1707年)の大地震による津波で流されてしまったと伝えられています。この寺は80年ばかりの後、天明6年(1786年)再建されました。この時の住職「愚海和尚」と応挙が友人であったことから、応挙は落成の祝いにと障壁画を贈り、高弟の芦雪を遣わしたといいます。天明6年後半から7年のはじめにかけて芦雪は南紀に下り、串本の無量寺、古座の成就寺、富田の草堂寺の3ヵ寺に計180面(資料によっては270点とするものもある)に余る障壁画を残しています。大乗寺の猿の間はそれから少し後の芦雪41歳の頃描かれたものです。


部分1
部分1

図1
図1

部分2
部分2

部分3
部分3


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