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群山露頂図 呉春筆 天明7年[1787年]について この部屋はまわりを別の部屋に取り囲まれているので、部屋の四方に襖があります。(一部壁)呉春はこの四方の襖に筆をふるい、霞の中に林立する山頂を描いています。山はどれも険しく人を寄せつけることなく、自然のままでそこにあることを主張しているようです。大乗寺ではこの部屋を「禿山の間」と呼んでいます。 呉春がまだ与謝無村の影響下にあった時代の絵で、文人画の描法を用いて描いているのがわかります。絵に四方を囲まれ部屋の中に座ると、俗世を離れた仙境(仙人の住むところ)に居るような感覚を体感することができます。 また、この部屋は「農業の間」、「使者の間」に続いて仏間に至る間に位置します。「農業の間」の平地、「使者の間」の山の登り口に続く山中で、序々に高さを得るとともに俗世から遠ざかり仏様に近くなるイメージの高揚を醸成する部屋でもあるのです。 呉春はこの絵を36歳で描いていますが師とした蕪村はすでに亡く、この大乗寺襖絵制作をきっかけに呉春は応挙に近しい絵師となったといわれています。この絵の制作から8年後、呉春は「四季耕作図」を大乗寺のために描きますが、2つの絵を見比べて呉春の変化を知ることができるのも、大乗寺ならではの襖絵の鑑賞法です。 ◆美人であった呉春の妻 呉春は島原の太夫であった雛路(ひなじ)という女性を身請けして妻にしたといわれています。島原で太夫になった人ですからきっと美しい女性だったのでしょう。ところがこの雛路が播州への里帰りのために乗った船が遭難して死んでしまうのです。呉春はショックで寝込んでしまったそうです。この失意のまな弟子の様子を見た蕪村が転居をすすめ、呉春は摂津池田の呉服(くれは)の里に移りました。そこで新春を迎えたことから「呉春」という名に改めたといわれています。それまでの呉春は月渓の名を使っていました。 ちなみに現在の大阪府池田市に蔵元がある地酒「呉春」は彼の名からつけられたものだそうです。 この項 参考資料 大阪北部の文化・歴史「四条派を築いた画家呉春」 | ||
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